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フラメンコの歴史

FIRST REFERENCES

 

後にフラメンコとなるその原型を決定づける、リズムの抑揚やメリスマ(一音節に付された長いメロディ)はイスラムのシングル弦楽器ソングに由来すると言われています。しかしその一方で幾分かはインドよりやってきたジプシーの民のクリエーションにも由来すると考えられています。

最初にスペインにやって来たのジプシーは、“Juan&Tomas”、または“マイナー・エジプトの伯爵”と呼ばれた人たちで、アラゴン王JuanⅡ世によってそのバンド活動を認められました。このマイナー・エジプトという名から後にジプシーという名が生まれ、その彼らがアンダルシアへやってきたのは1465年の11月22日のことでした。

1613年にMiguel de Cervantesによって書かれた作品『La Gitanill』では“ジプシーの男性と女性による踊り”に関する記述が現在までに残る文献の中では最古のものとして確認することができます。

またスペインのジプシーの歴史について言及する上で忘れてはいけないのは、その前からすでに存在していた既存の多種多様な文化です;ユダヤ人文化の賛美歌、イスラム人の歌、モサラベ人の伝統歌など。

最初の“palo(パロ)”は“tona(トナ:伴奏のなしで歌うフラメンコ)”であったと考えられています。こちらはギターサウンドがなければ踊りもなく、その由来地域はCadiz, Jerez de la Frontera そして Trianaでした。

 

フラメンコの一つの問題はその歴史上、1900年頃まではオーラル手段でのみ伝達されてきたことです。

Demefiloは1882年から1888年まで"Las Tradiciones Populares Españolas(スペイン大衆文化)"と呼ばれる全11巻からなる百科事典を書き上げました。その第1巻では“Fiestas and costumbres andaluzas(アンダルシアの祭日と伝統文化)”に関して膨大な情報を得ることが可能です。また1881年には彼は"Coleccion de Cantes Flamencos(フラメンコソングのコレクション)"も書きました。

 

Demèfiloはペンネームで本名はAntonio Machado Alvarezというスペインのガリシア州サンティアゴ・デ・コンポステーラに1848年に生まれ1893年にセビリヤで亡くなった文筆家で、同時に文化人類学者、スペインフォークロアの専門家、また初めてのフラメンコの専門家でした。彼のおかげでそれ以降、わたしたちはフラメンコに関する多くの情報を得ることが可能になりました。

 

 

 

ORIGIN OF THE WORD "FLAMENCO"

 

ミステリーは古代フラメンコにつながる全てのものと関係があります。これは“フラメンコ”という言葉に関しても同じです。これに関しては様々な説が存在します。しかしその中でも最も広く支持されているのは20世紀に書かれ1980年に始めて出版されたBlas Infanteの作品『Orígenes de lo flamenco and secrets of the cante jondo』の中で書かれているものです。彼によると“フラメンコ”という言葉はアラブの言葉に由来するもので、その意味は“ぶらぶらと放浪する国の人々”というものです。

様々なジャンルの数ある言い伝えの中にもわたしたちの興味をひく面白いものがあります。例えばにDemèfiloよるものもその一つで、ジプシーの人たちはアンダルシアの人々を“gachos(ひどい人たち)”と呼び、アンダルシアの人々はジプシーの人たちのことを“アンダルシアン”と呼んでいたというものです。彼によればこれはかなり古くからの呼称ということになります。

 

 

 

 

 

 

 

GREAT OLD "CANTAORES" or SINGERS

 

 

わたしたちが思い浮かべる歴史上の最初のフラメンコシンガーはJerez出身のTio Luis de la Julianaでしょう。しかしわたしたちにはそれを裏付けるなんらの証拠もありません。

わたしたちはこのテーマの言及するとき、El Planetaについても話さなくてはいけません。彼がCadizの海岸地域Puerto Reaで出生したかどうか確かではありません。しかし彼がSeguiriyasやTonasを歌いその名を残したことはわたしたちは史実として知っています。

彼のメーンの教え子はCadiz出身のジプシーEl Filloでした。彼は何年にも渡ってLa Andondaと親交がありました。彼女は非常に強いキャラクターを持った女性で、酒を好み、またトラブルメーカーでもありました。El FilloはLa Andondaについて言っています「小型ナイフと侮辱の言葉が彼女の一番の友達でした。彼女の人を殺めたい、もしくは(自身が)死にたいという望みは常に明らかでした。彼女はまるで子羊の群れの中の狼に似た恐ろしさのインスピレーションを持っていました。」。

 

Los PelaosやLos CaganchosなどわたしたちはすでにTrianaにおけるすばらしいフラメンコシンガーファミリーの存在を知ってはいますが、La AndondaはおそらくSoleaを歌った最初の女性です。

Soleaスタイルはその創成期からその後セビリヤの陶磁器家がフォローなしのスタイルを考案し始めるまでは “踊ることのできる歌”として認識されており、いわゆる“コンパス”としてのテーマは持っていませんでした。

この時彼らはromancesやmartinetesを歌いました。これらのスタイルはtonaにリンクしていました。

また同じ時期にJerezやLos Puertosでは重要なフラメンコグループが多くその名を上げ始めました;"El Loco Mateo", "Manuel Molina", "Diego el Marrurro", "Joaquin Lacherna" や "Mercé la Serreta"など。海岸沿いでは"El Ciego la Peña", "Curro Durse", "Enrique el Gordo" や Enrique Jiménez Fernández "El Mellizo"など歴史をつくりました。

しかしながら、Ricardo MolinaやAntonio Mairenaに彼らの著書『Mundo y formas del cante flamenco』の中で“明らかにされていない”と呼ばれたこの間に起こったことに関して、わたしたちは十分な文書を持っておらず、ミステリーは引き続き残っています。この時期の後、状況は全て変わっていきます。

Morón de la FronteraでEl Filloによってと名付けられた子供が後継した“遺産”はフラメンコの未来に向けての重要な“キー(鍵)”となるでしょう。

 

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